綱領・年間目標

         

綱領PLATFORM

『合掌深敬の心』

三つの誓い

大自然は“共生”の大原則のもと、それ自体の摂理と自浄作用により全体のバランスを保ち生存維持の営みを続けている。人間も自然の一部として、この生の営みの埓外ではない。この事は自然保護や環境保全が新しい現代の人間課題として登場してきた現実に照らしても自明である。
“釈迦牟尼”-仏陀の教示する不殺生の戒は、現代的にはこの共生の原理に当るものである。また所謂、共存や生命尊重も以上の事を踏まえたうえでの論理に立つものである。とりわけ、仏教的生命尊重は何人も仏性(己を高めたい願望)を内蔵する故に尊く、また人間の生きる使命は、その内なる能力開発(仏性開顕)にあると訓されている。福祉が人間の幸福課題を希う実践であろうとする限り、その人間課題の深い部位で、仏陀の覚り得たものと密に弧を接する群類にあると言える。
本会はこのような基本理念に立ち、福祉の実践を目指すものである。関係者一同、この共通理解に立ち職分を自覚し、異体同心にその担い手として社会福祉の一隅を照らそう。 

年間目標ANNUAL GOAL

四月 合掌聞法 -最高の聞き耳を持つ-

話を聞くのに一番大切な事は、関心のある心のベースがある事が物事をよく聞き取る基である。聞法の「法」とは仏教哲学の教える規範、「人はいかに生くべきか」の教を指す。本当は、この事が「生きる」と言う生命を持続している限り第一の関心事である筈だ。
この心構えで話を聞けば、何事も自分の生きる糧とならないものはなく、有り難い事である。限りある人生の中で、見聞し得た事が勉強となるなら、全て合掌感謝とならなくてはならない。私も子供に法を聞く者である。

五月 持戒和合 -きまりを守る-

客体的な戒としては法律があるが、ここで言う「戒」は主体的戒を指します。客体的集団規制の掟以前の人の生き態に係る、自分が自分に課する戒の事です。
速度を高くすればする程、それに対応する制禦が働かない事には実用に役立たない。人間も地位・立場に相応する自己制禦のブレーキが必要である。それを生涯の戒とする人は、立派な人生と言える。和合は実は内なる盲目の自己と自己制禦の葛藤の上に支えられる至宝である。

六月 生命尊重 -凡ての物の生命を大切にする-

宇宙は一体・全体が連鎖集合の生命体、人間を頂点とする生命体の連鎖生滅、弱肉強食の上に生命が維持されている。 殊に人間の生命は、宇宙の最高の生命顕現として、覚者-仏性-たる可能性を持つ故に尊厳である。それ故、全生命系の支配と同時に護り育てる責任がある。全てをその本来のいのちの如く、完全に自己実現できるよう祈らねばならない。

七月 布施奉仕 -社会に喜ばれる-

グローバルな生態系の中で、生物は相互に喰い合う連鎖関係で生きて居ります。人間だけが喰われる連鎖から解放され、色々の生命体を食って生きて居ります。意識して与える事のできるのは人間のみです。その事を踏まえての奉仕の心です。大乗仏教の布施行は、意識して他に与え、みかえりを求めない修行です。

「財施」

無償の金品施与の行です。心がければ誰もできます。それでも「あんなにしてやったのに」と愚痴るもの、求めない事は至難の技です。

「法施」

人間の生き態、ものの道理を教えてあげる、心の糧を与えられる人は幸せです。

「無畏施」

危難や生死の関頭に立って安祥として対処できる悟道を与える事、凡人のできない事です。身体で、口で、意で常に心掛ける事が大切です。

八月 自利利他 -相手の立場を考える-

仏教は物の道理を教える理論を持って居ります。「因縁」と言う言葉がそれです。よく「袖ふれ合うも多生の縁」等と言います。物事は全て因が先ず有って、それが縁にふれ果が生じ、その果がまた第二因となって、縁にふれ第二果を生む、連鎖して無尽の相関関係の世界を展開します。 人と人の結び付きも無尽世界そのものです。その中で本能的に生きる限り、誰もが自利を追求するのは当然です。だが人間相互の係りは、自利が利他になる様な積算が成立しない限り、個と個は結ばれる事がありません。自利とは利他によって与えられたものです。この事を踏まえて、自利を得る「受け皿」をつくる事が先決です。

「利他行」

他の為にお役に立つ心掛けは、社会生活の基本です。利他行なくして得たものは、本当の自分のものでなく、一時預りのようなものです。

九月 報恩感謝 -有難うと心から言える-

マスコミ情報の渦、騒忙の日々の中では、自己凝視とは縁遠いものとなりました。今日只今、此処に存生する自己を凝視することを仏教は厳しく教えて居ります。親ありて、師ありて、友人ありて、郷土故国ありて、親、師、衆生、国土の四恩を掲げて居ります。
人間だけができる自己を環る凝視の深い温もりと、ほのぼのとした感謝の情念です。生命のルーツ、育ての親、学習し得た師友先輩、自然の山河、国土風俗等、どれを取っても自分を養い育んでくれた大自然の営みです。一つ一つの反省点検を経て、無償享受の施与を受けて居る事にハッと気付いたものです。四恩を感じ取れる人は、この施与に応え、亦、感謝「ありがとう」の言葉の素直に言える、内懐の深く豊かな人です。そんな人に育て、なりたいものです。

十月 同事協力 -心こもる協力-

お互いに同じ空の下、同じ時代を共受共有して「今ここにある」と言う己の存在を考えてみた事がないだろうか。当り前の事を、永遠の時、無限の空間の位相で考えてみる。そう言う位相に己を打ち据えて探求する。同事とはその様な哲学する姿勢である。そこでは大きな価値転換、つまり偶然、当り前の事が必然なものとなり、私と他者との出会いが運命的必然として再生してくる。
同事協力とは、だからそんな深い思索の底で縁の本性に気付き、心から協力する生き方である。思い付きや、一寸した縁での協力もあるが、親兄弟、夫婦、恩師上司、親友同僚等、その関係には浅深があるが、「袖ふれ合うも多生の縁」とやら、路傍のものとして過ぎ去って行くのではなく、心の永遠の相の窓に映し、心の中にどのように慈しみ育てるか、豊かな人生を築く鍵でもあると言えよう。

十一月 精進努力 -己の成長を愛せ-

秋もたけなわ、自然は秋の果実をみのらせ、「食欲の秋」とも言われる。”精進料理”と言われ魚介類を使用しない仏教の調理がある。心身を調和して養い、求道修行の目的を果すに好都合な料理の意味である。
人も自然の一部として、その自然環境に育つ食物によって生き、生かされている。「身土不二」と言う東洋思想がその事を物語っている。肉体は環境自然に依って養われて居り、だとすれば大地と肉体とは大きく連続して居ると思惟する発想である。
霊長類としての人の生きて居る目的は、自然の調和に順応して、地上に平和の世界を実現する事である。その為の生命、その生命維持の為の「食」である限り、徒らに肉体生理上の糞として排出する丈ではない。それは身を養い、そのエネルギーを社会に活性化する事である。精進努力とはその様な深い意味をもつものである。

十二月 忍辱持久 -苦しいことに耐える-

受刑者が、「刑務所を出る」ことを「沙婆に出る」と言う。シャバとは梵語で、「忍土」と訳す。人間の生きるこの世は、苦しい事や嫌な事に耐えて生きる世界であると言う大前提が、仏教には先ずあることを考えて見る事である。物質文明の恩恵に浴し、その中にどっぷりと埋没した現代は、エゴだけが露出し、耐える事を忘れかけた時代とも言えるかも知れない。
その様な時代だからこそ、肉体の鍛練の凡ゆるスポーツが大切なのと同様に、意図的な自己耐性の涵養が心がけられるべきである。仏教の忍辱持久の徳目は、人が生きる姿を、耐えてゆく事と捉えた大前提に立って、凡ゆる苦しい事に立ち向かって生きる生き態を教えて居るものとして意味深いものと思う。
自己の耐性は誰も手伝ってくれないもの、自分で開発するしかない徳目である。

一月 和顔愛語 -心に慈愛をたたえ、相手の為になる言葉かけをする-

「愛語」とは、その言葉が、その人の人生の転機となる、亦は生涯の生活の指針となる様な言葉。だから常に心の奥深く、他者を慈愛する心がなくては生まれない一語である。従って愛語を発する時は自然に、慈しみをたたえた和顔であるので「和顔愛語」と言う。
悟りを得た後の仏陀の言葉は、衆生慈愍の言葉を謂うもの、全てが和顔愛語である。愛情、悲喜、怨恩等々現実の姿を、仏智見と言う絶対慈悲の境位で把える世界である。親の児に示す、無条件の慈愛、犠牲、奉仕、言葉かけ、どれ一つ取っても、人間の持つ霊性、仏性の一分顕現である。
愛語は、にたにた笑いからは出ない。時には仁王の様な叱怒も伴う。心底は和顔なのである。無償の慈愛なしには一語もない世界だ。

二月 禅定寂静 -心を無の状態に静坐し、常に根源的発想を養うこと-

人間開発を心身共に最高に開発活性化し、地上楽土を建てる事が仏教の目的である。仏陀の切り開いた内証の世界は、禅定と言う静坐の姿勢から得た地上最高の精神世界である。
独生独死・独去独来と言われる自己の「己れ」とは何者かを見据えて見る事は大切な事である。情報時代と言われる余りにも多種多様な情報に包まれ、時に情報選択すら放棄し慌しく返す日々の多い今日この頃、心掛けねばならないことである。心の大掃除、点検、自己回復の手段である。人は半身半獣、霊肉二重層の世界を生きる欲望と言う名の馬車に乗る生き物である。
臍下丹田呼吸は坐禅の初歩、そして奥義である。自信溢れる福祉実践者は丹田を養生することから始まる。一呼吸置いてする心掛けである。

三月 智慧希望 -困難を乗り越えてゆく人生智を持ち、祈りと希望を捨てるな-

人の生活する現実は、相対の世界である。苦楽、愛憎、悲喜は、相互に裏肚である。この相即相対の原理に立って、苦に居て、楽の日の近い事を、愛の日々が、憎の時にならない様、発想出来る人間訓練が望まれる。
智慧とは、知識とは異なる流動的な生の流れの真っ只中で行なわれる人格的総合判断である。
多難の人生、毎日が決断の日々であるが、決断に戸惑う暗黒の日もないとは言えまい。そんな時は、動かずじっと希望を捨てず、祈る事である。祈りは、危機に臨んで最高のエネルギーを分与してくれる。祈り、希望しない処には何も生まれて来ないからである。
仏語の智慧とはもっと高次元のものだが、我々も常にこの人生を切り開いてゆく智慧を養いたいものである。

誓願VOW

綱領及び年間目標は、創始者初代理事長遠藤光静氏が描いた熱き思いである。私たちは、永遠の課題としてこの基本理念を尊重し、誠心努力することを誓願する。

PAGE TOP