〜 創業者理事長 故 遠藤光静師 の言葉より 〜


人は皆んな佛性を内に包む故に尊く、合掌し合う者。

お互いに補い合い、共に生きる者。

そんな社会の一員となれる人を培い育てる事が私共の法人目標である。

法人名「同仁会」の掲げる「合掌不殺 共生の心」である。

これは、私共福祉の担い手としての誓願であり、

日々の福祉心であり、

そんな者としてこれからも福祉の一隅を照らしたいものである。


 昭和20年代初め、占領下の世相は、戦争の疵跡(きずあと)も生々しく、誰しも飢えと欠乏の真っ只中、暴動一歩前の騒然たる状況だった。これからの日本がどうなるかの見通しも立たないまま虚脱の中を彷徨(ほうこう)していた。
 そんな折、私も若かったので、何か役立ちたいと、わが非力を歎(なげ)き、また、当時長男を亡くした痛手もあり、子供への愛情は敏感だった。偶々(たまたま)上京しては、真っ黒な浮浪児が上野駅地下道に屯(たむろ)する姿を見て、心を痛めていた。

 佐藤広喜氏(旧松岡町役場民生係)の誘いは丁度こんな状況下で起こった。養護施設と言うものを知る最初のキッカケでもあった。「子供の施設をやってみないかね。」と、ポツンと佐藤氏は遠慮気味に言った。即答出来る問題ではないので、直ちにイエスとは言えなかったが、内心では「これだ、俺の道にぴったりだ。」と思った。この日の佐藤氏の触発が契機となって、私は福祉事業に夢中で傾斜して行く事となる。不思議な巡り会い、有り難い機縁(きえん)である。

 早速、施設造り準備の構想に入った。当初は自坊の庫裡(くり)を改装して開園を予定したが、これは不認可となり、通学に便利な新たな敷地探しとなった。
これより先、私のこの事業への理解協力者を開拓する行動を続けたが、当時福祉事業に対する理解は、求める方が無理な世情だった。そんな中で自坊の檀徒総代(だんとそうだい)だった
 
故 大高新一郎氏(当時旧松岡町町長)
故 今川三九郎氏(当時高萩郵便局長)
故 鈴木 藤雄氏(当時旧高萩町議会議員)
故 滝  宗作氏(当時開業医)

が、最初の良き理解者となった。



 現在の臨海学園の敷地は、新しい予定地探しに困窮して居る私を見て、故今川三九郎氏が提供して下さったものである。
 多分夏の終わり頃と思う。小松林の小径(こみち)をぬけて行くと、荒れた砂畑があり、うら成りの小さな西瓜が淋しげに、散乱していたのを記憶している。周囲に人家の絶えた荒涼とした砂丘だった。さまざま案内してくれた今川さんはぽつりと、「遠藤さん、ここに決めよう。」と言った。思いもかけない厚意に、熱いものが込み上げて感動し、いたく感激した。これは、この事業発足当初の感動であり、私のエネルギー源となった。有り難い知遇である。

 昭和25〜6年頃、「茨城県多賀地方事務所」(高萩所在)に神長新一氏が民生課長で、県共同募金会には秋山文則局長が在籍され、神長氏からは不案内な行政の面で終始助言援助や共同募金会への繋ぎの労を、後者の秋山局長からは特別配慮で、施設建設資金90万円の配分(当時としては破格)を頂き、再度われながら驚き、思いも寄らぬ励ましを受け感激した。

 施設創設への緒は一歩前進見通しはついたものの、当時は今と異なり、何せ施設造りは、丸々自己資金の上、公的融資制度も皆無の時代、資金作りは容易でない。説得を重ねて、先ず自坊の老松を資金に代え、銀行に借金のコネ(滝氏及び今川氏に仲介を頂く)を着けてもらい、何とか見切り発車することとなった。

 材木は高萩営林署の配慮(滝氏の仲介による)、釘金物類、ガラス(当時これ等は現物で確保しないと建物はできない)を準備、昭和26年10月着工、翌年3月完成、4月開園の予定、やっと辿り着いた一里塚。養護施設への「願」を起こしてから丁度3年目だった。

 だが気を抜く処ではない。県の要請で、吾が家は里親委託児を預かることとなり、母と私共親子、里子3名計9名の家族で家の中は大騒ぎである。こんな生活に、心ならずも巻き込まれて、母はこの時、「なぜ、家の中までこんな生活をしなけりゃならないの!」と、福祉と言う仕事に声援を惜しまず協力してくれた母だったが、遂に愚痴ったものである。



 建物は進捗(しんちょく)し、地上に形を現し、およそ完工度80%、悪夢のような火災炎上!だ。

 電話のない時代、この通報を聞き、飛ぶ思いで現場に立った。炎はめらめらと夕闇の空に舞い上がり、やがて全棟に燃え拡がり、ドドッと言う鈍い音を立て、灼熱の火柱を残して、ゆっくりと崩れ落ちた。束の間の別れを惜しむかのように!

 傍(かたわ)らに、この日以降格別の御世話になる事となる、後の国会議員故大高康氏(当時、消防団長)が、「遠藤君!困った事になったね。」と、ぽつんと一言だけ言って立っていた。暫くの時間の経過の後である。恨めしさ、虚しさとも形容しようもない空虚感が全身を走った。昭和27年1月12日夕6時の事だ。そんな状況下で、これからどうするかを考えた。この日まで支援してくれた多くの人々、その恩顧を無にする訳にはいかない。「再建」しかない事を自分に言い聞かせた。この事件を私以上に心配し、大高、今川、鈴木、滝の四氏は寄々(よりより)善後策を協議していたのである。有り難い事である。

当時の新聞記事


 この事件を契機にして、初めのうちは生意気な坊主が、等の世評も同情風に変わり、亦、前記四氏の手早い善後策の助けもあり、再建オンボロ学園の誕生認可(昭和27年6月24日)の見通しはすぐ立ち、その年の6月に完成、私立高萩臨海学園の認可となる。

 その建物は、何せ50年経過老朽廃棄の旧秋山小学校校舎の建て直しである。何分焼け出された罹災者の身、選り好み言っておれない。材料は勿論、建具、瓦まで活用した。夏はまだ良いとして、冬場は隙間風が部屋を吹き抜け、寝つかれない夜も度々、雨嵐ともなると雨漏りが、布団を担いで逃げ廻る程である。今日この頃では、想像もつかない建物である。

私立高萩臨海学園の運営

 こちらは毎日の食糧に、衣類資金に、職員に、発足から5年程は全くの試行錯誤、計画も立たないまま情熱だけで仕事をすると言う日々である。まさに狂乱怒濤の時代。だが皆んなが奉仕の心に燃え、励まし合った充実感のある時期でもあった。

〜 窯に火を点す 〜

 野中の一軒家の為に点灯しなかった電灯もやっと灯った。いよいよ施設の生活の開始だ。荷馬車に一台すぐ生活が出来る様、母が積んでくれた鍋釜、薪炭、味噌、野菜等を積んで自坊を出発した。私は砂利道をガタゴトと車輪を轢(きし)ませて動く荷台の後について歩いた。期待と満足感が入り乱れていた。

施設の第一夜は、私と職員5名、児童3名(自坊の里子達)だ。皆んなで一部屋に集まって寝た。

〜 貧しい生活 〜

 1日子供の食費が「42円」。おおよそ想像がつく生活である。ウドン、雑炊、麦飯。米の出るのは1食だけ。その1食米飯も充分でないので慢性飢餓が続く。従って喧嘩、盗み、無断外出等は跡を絶たない。

 衣類は着たきり雀(すずめ)よろしく、冬など暖かい日を見て洗濯して直ぐ着せる。着替え等は、2・3年経たないと与えられない。「ララ物資」の古衣更生で救われたのもこの時代。住む部屋は先に述べた通り、何とも惨(みじ)めで貧しかったが、皆んなで施設の生活を良いものにしようと、職員と子供の心が通う共同生活であった。学校から帰ると風呂水を汲む者、風呂を焚く当番、薪を割る子、お使いに行く子、トイレの新聞紙を切る、炊事の手助けをする、掃除(ハタキ、雑巾掛け、庭掃除)さてはトイレの汲取りも自分等でした。

 生活の臭いが生々しく、痛々しい程密着していた毎日である。足袋を履き、靴下は登校用、傘は紙の番傘。また、施設の経費は、当時は児童数に応じた支払制だったので、文字通り赤貧(せきひん)洗うが如しの生活。3ヶ年程は、衣食住は勿論、職員の給与の支払にも困り、見限って去って行く職員もある程、破産寸前の運営である。

 石炭拾いに子供達が行き、バケツ2・3杯の石炭を下げて喜んで帰ってくる。その夜は“ダルマストーブ”の赤々と燃える炎を囲んで、皆んなで暖を取り乍ら、色々な会話がもたれる。石炭を買ってやる金もない頃の心温まる思い出である。赤々と火照る童顔が浮かんでくる!

処遇向上の為の付属建物の増築に着手

 「焼き出された後遺症」の回復を図る為、静養室、浴室、児童小舎、倉庫等を逐次増築、児童処遇の補完に手が廻るようになるのは昭和30年以降である。

 これ等の事業はほとんど毎年のよう継続して進められたが、全て共同募金の配分により賄(まかな)われた。当時の県共同募金会片岡義男局長の理解と協力の賜である。継ぎ接ぎを続け、オンボロながら何とか住める施設に仕上げて行った。

法人の設立及び整備拡充期

 混沌と試行錯誤を繰り返しながら、順次福祉事業も方向付けと体制作りが意図されて来た。社会福祉事業法が制定され、今後社会福祉施設は全て法人設立により行われる事となり、昭和30年前後を境に、県内にも次々と社会福祉法人が設立され、臨海学園もその当時から法人の設立につき指導を受ける様になった。法人化問題は、園の敷地が国有農地となり、そのため施設建物は国有地の不当占拠と言う状況のまま10年を経過した。幸い、高萩出身の国会議員大高康先生の仲介を頂き、永年の課題が解決、昭和37年法人設立が実現し、社会福祉法人高萩臨海学園となった。法人格が与えられると同時に、永い歳月オンボロ施設に耐えて来た私共を見かねたように、施設改築の補助金交付を受ける事となった。

共同募金・お年玉年賀はがき配分(昭和37年)
日本自転車振興会補助(昭和38年)

と続き、「雨漏り」「冬の隙間風」から真新しい新建築に移り住む事が出来た。職員も子供達も晴々と身の引締まる喜びだった。

 こうして臨海学園は、火災炎上の日から12年目、過去の余燼(よじん)を忘れ、子供達にも明るくて、快適な日常が訪れ、私共もこれで一応の初願成就を欣(よろこ)び合った。


 引き続いて、乳児院及び保育園が併設される事となるに伴い、昭和42年に法人名称を「同仁会」と改称した。


 保育園設置のことは、そんな暫(しば)しの安らぎの中で降って湧いたようにこの法人に持ち込まれた。

 戦後、住宅地区に発展した高萩駅東地区は、未(いま)だ経済的基盤も浅く、要保育を望む人々が多いにも拘(かか)わらず、保育所がない為、多年に亘(わた)りその設立が要請されていた。そんな状況下、多分に政治的含みもあり、市及び地域の方々から「支援するから是非保育所を。」との要望があった。

 かねて、同一地域に福祉施設を営む者として、何か地域に直接奉仕の出来る事はないかと内々模索していた時機でもあったので、理事会にこの旨(むね)を諮(はか)り、要望に応え直接的地域福祉への実践に踏み切った。

 同仁東保育園の誕生(昭和43年4月)である。戦後20余年待望の施設であったので、地域住民の直接の喜びを膚(はた)に感じ、養護施設とはまた別な福祉の在り方を知った。今や地域に定着し、地域福祉に役立っている。

 乳児院の設置に至る経過は、昭和39年に遡(さかのぼ)る。

 丁度(ちょうど)その年、日立市助川町2−15−1所在「乳児預かり所日立乳児院」は従来の所管課環境衛生課から児童家庭課に所管替えとなったが、その時点で調査したところ、元の設置者、同胞援護会日立支部は解散し、既に設置者なしの施設となっていた。そのような事情で急遽設置主体を定め、その運営を安定化することが急務であった。そんな時、私に所管課より要請があり、「引き受けてくれまいか。」と相談があった。寝耳に水の話である。勿論、保育所新設問題がボツボツ影を引き始めた当初のこと、力不足を理由に辞退し、乳児院存続の別の方法で努力する事を約し、独立法人設立または日立市内別法人移管を仲介したが、全て不成功に終わり、一時期問題を抱えたままとなった。

 問題とは建物の登記寄付、施設敷地の賃借契約の事等、複雑な事が有った。再度に及び所管課より引き受け依頼と督促を受け、いよいよ私は態度決定を迫られることとなった。当初、理事会は、事業の間口を拡げ過ぎるとして反対であったが、歴史の有る乳児院の存廃のとき、養護とは無縁でないので手を貸そうと言う理事会意見が出された。建物の寄付受け入れ登記、院敷地の土地貸借契約、施設の認可等手続き、就中(なかんずく)、建物登記が複雑なため、意外に時間が経過、同仁会設置日立乳児院の誕生は遅れて、昭和42年4月となった。同年、乳児9名の「預かり所」を、定員13名の「乳児院」に増築昇格した。


 法人設置の当初より課題とされていた乳児院改築問題は、施設建物の老朽化が進む中で、移転の場所を決定する事が急務となり、昭和48年頃から日立市と折衝したが、日立市内に用地が得られない結果となったので、遂に高萩移築を決意した。以上のような実状を高萩市に披瀝(ひれき)し協力を依頼した処、鈴木市長及び佐藤民生部長の全面的な受け入れ配慮を得て、現乳児院敷地が決定。移転改築の夢は、高萩市秋山の地で結ぶ事となる。憶えば委託を受けた日から10余年、ほっと肩の荷を下ろした想いであった。
この問題に関係された県所管中山民生部長、小田児童家庭課長、日立市佐藤民生部長、乳児院創設者故立花寿先生御遺族の皆様、ただ有り難うと、この勝れた縁のふれ合いを慶びあう心で一杯である。


 こうして、早くもいつか30年。

 顧(かえり)みて拙(つたな)い小さな歩みに過ぎないが、それなりの苦楽併せ持った幾山河(いくせんが)であった。また、勿体(もったい)ない程多くの人々の心籠もる愛顧、激励を背に浴びた幸せな日々であった。それが今日の素直な実感である。

 児童福祉と言うこの事業に、手を差しのべて下さった多くの先輩知友、本当に「有り難う!」と、深々と頭を垂れ、合掌して感謝の心を捧げるばかりである。

 今は故人となられた懐かしい恩顧(おんこ)の方々をも含めて、限られた30年の時と空間に繰り拡げられた福祉を囲る多くの先輩との邂逅(かいこう)は一幅の「福祉曼陀羅(まんだら)」とでも表現すべきである。

 一人ひとりが皆んな慈光を湛(たた)え合掌し合っている。初発心(しょはつしん)を忘れず、また多くの後援の方々の愛の鞭を糧に、これからも永く児童の幸を求めて精進する誓いを新たにするものである。

 人は皆んな佛性を内に包む故に尊く、合掌し合う者。お互いに補い合い共に生きる者。そんな社会の一員となれる人を培い育てる事が私共の法人目標である。法人名「同仁会」の掲げる「合掌不殺 共生の心」である。

 これは、私共福祉の担い手としての誓願であり、日々の福祉心であり、そんな者としてこれからも福祉の一隅を照らしたいものである。
              
  《同仁会30年記念誌より抜粋》